Vol.08
私たちが届けてきた
『あたたかさ』とは
写真左:甲子園住宅経営地案内(1930年頃)
写真右:UR武庫川団地内でのイベントの様子(写真中央:コミュニティスペースとして活用されている赤胴車)
阪神電鉄の沿線開発は書籍から
阪神電気鉄道では、開業から間もない時期に、書籍『市外居住のすすめ』(1908年)と月刊誌『郊外生活』(1914~15年)を刊行しています。前者は大阪を代表する名医14人が郊外生活を強く推奨する内容、後者は阪神沿線での郊外生活の良さを定期的に紹介するもので、その後の沿線開発を見据えたPR活動と言えます。そして、西宮停留場前(1909年)や鳴尾村西畑(1910年)での貸家経営を皮切りに、沿線開発・不動産事業に乗り出していきます。
市外居住のすすめ(1908年刊行)
甲子園での本格的なまちづくり
阪神電気鉄道における総合的デベロッパー事業のはじまりは甲子園開発です。1922年に兵庫県から枝川・申川廃川敷の払下げを受けた後、周辺地域の買収を進め、甲子園大運動場をはじめとするスポーツ・レジャー施設の開設とともに、大規模な住宅開発を行いました。中甲子園・上甲子園・七番町・浜甲子園・南甲子園の各経営地や浜甲子園健康住宅地を次々と開発・分譲する一方で、甲子園線の敷設、直営での水道事業など、交通・生活インフラも整備し、“たいせつ”がギュッと詰まったまちづくりに取り組みました。
甲子園上水道貯水槽(1954年)
沿線のみなさまとの連携による地域活性化
時代が流れ、阪神沿線においても近く人口減少に転じると見込まれています。沿線の魅力はどこにあるのか、そして、阪神グループは未来をどう形作ろうとしているのか。お客さまに寄り添い、分かりやすく情報発信を続けるとともに、灘五郷、阪神間モダニズムなどの観光資源、充実した医療機関や教育施設、日常的にスポーツや文化に親しめる環境を生かし、自治体、大学、企業と連携したイベントの開催やインフラの整備等を通じて、誰もが「住んでよかった」「働いてよかった」「訪れてよかった」と実感できる沿線の実現に取り組んでいます。
灘五郷ラッピングトレイン
120th アナザーストーリー
阪神の不動産事業のはじまり
阪神電気鉄道は、「市外居住のすすめ」刊行から約1年後の1909年、西宮停留場前の貸家経営(14棟(32戸))を開始し、不動産事業に乗り出します。
これが好評であったことから、鳴尾村西畑の枝川のたもとに約5500坪の土地を買収し、1910年に貸家(50棟(64戸))の建築を行いました。同地区には文化人が多く居住していたことから「文化村」と言われていたそうで、大正から昭和初期にかけて俳優の森繁久彌さんや作家の佐藤愛子さんも暮らしていました。
1911年には御影・東明の所有地に分譲住宅(19戸)を建設し、初めての住宅分譲を行ったほか、北大阪線(野田~天神橋筋(天神橋筋六丁目)間。1914年開業)の建設に際して、沿線の広大な土地を次々と取得。開業後、同線沿線の土地需要が増大し地価が高騰する中、1918年に阪神土地信託(1922年、阪神土地に改称)を設立して分譲・賃貸を行い、大きな利益を上げました。
そして、1922年に枝川・申川廃川敷の払下げを受けて甲子園開発に乗り出そうとしていた阪神電気鉄道は、好調な阪神土地と合併して不動産事業の拡充・強化を画策。1927年に合併が実現し、阪神電気鉄道は自ら不動産事業を拡大していくこととなります。